1.はじめに
私は、可能な限り無宗教で生きたいと考えています。 これは特定の宗教(やその信仰者)を否定するものではなく、「自分の人生は自分の価値観でデザインしたい」という想いから来ています。
私は、もともと信仰心がほぼありません。個人で初詣・厄払いに行く習慣や、神社仏閣で参拝や祈祷をする習慣もありません。(組織の一員としては、参加する場合はあります)旅行で寺社仏閣を訪れることはありますが、それはあくまでその土地の文化や歴史を楽しむためであり、信仰心からではありません。
日本人は「無宗教」と言いながらも、 葬儀や法要の場面では実家の宗教に従うことが一般的となっています。私の実家も仏教で、私が生まれる前からその宗派だったと推測しています。子どもの頃から慣習として行われてきたため、長らく疑問を持つことはありませんでした。
しかし数年前、祖母の葬儀を経験したとき、私は初めて強い違和感を覚えました。
この記事では、私が仏教式葬儀に感じた違和感、それを受けた私の葬儀の在り方について述べていきます。
2.仏教式葬儀への違和感
祖母の葬儀で感じたのは、次のような“違和感”でした。すべて厳密に元を辿っていけば、仏教(の教え)がそうさせているものではないのかもしれませんが、その土地の文化・風土として染みついていることから、実質的にはそう感じざるを得ないものと思っています。
(1)「死」を忌み嫌うような雰囲気
私が仏教式葬儀で最も違和感を感じている部分です。何か「死」を忌み嫌うような雰囲気があります。(例:喪に服す、お別れ、暗い式典、沈んだ空気など)もちろん、祖母がいなくなった寂しさや悲しさはあります。
一方で「人がいなくなって悲しい」ことと「死そのものを暗く扱う文化」は別ではないかと感じました。生命ある限り、(原因はどうあれ)いつか死を迎えることとなります。これは自然の理と考えているからです。
(2)世間体や他人の目を気にしたような葬儀
葬儀は「故人のため」と言われることがあります。しかし、実際に葬儀の場に立つと、世間体や他人の目を気にしているだけではないか? と感じる場面が多くあります。
「家柄上、この規模の葬儀にしないとダメだ」
「僧侶は●名以上呼ばなければならない」
「戒名はこのランクにしないと恥ずかしい」
「簡素な葬儀・装飾だと親族がみっともないと言ってくる」
こうした言葉は、故人の想いとは全く関係がないと感じます。むしろ、生きている者達が “周囲の評価を気にして整える儀式”になってしまっていると感じます。
「お金を掛けて葬儀を大きく・派手にすることが、故人のためなのでしょうか?」
「逆を言えば、お金のない方は、故人を見送ることはできないのでしょうか?」
これは直接的に仏教がそうさせているものはないのかもしれませんが、私は、葬儀が誰のためのものなのかが曖昧になっていることに違和感を覚えました。
(3)親族へのお布施のくどき(戒名・葬儀対応など)
(これは、私の実家だけなのかもしれませんが…)前述したように、世間体や他人の目を気にする割には、戒名や供養に対する僧侶へのお布施に対して、口説いている光景を見かけます。こんな光景からも世間体を気にしていることが伺えますし、そんなに嫌なら、やめればいいのにと思ってしまいます。
しかも、お金を掛ければ、戒名のランクアップもできる?という謎のシステム
こういったところから「(故人のためと謳った)戒名ランクアップ&僧侶増員ビジネスをしているのでは?」と邪推してしまいます。
(4)「ろうそくの火を消してはいけない」という通夜の慣習
通夜では「灯明(とうみょう)=故人を導く光」を絶やしてはいけないという慣習があり、ろうそくの火を消してはいけないとされることがあります。しかし、これは宗派や地域によって異なる“慣習”であり、現代では安全面から途中で消してもよいとする寺院も増えているようです。
しかし、私の地域の葬儀ではこの慣習が強く残っており、家族・親族が夜通し火を見守る必要がありました。特に喪主であった父親は高齢であったこともあり、睡眠時間を削られ、一定の身体的負担があったとを感じています。
(5)法要の多さによる、残された家族への負担
仏教式葬儀に続く法要の多さにも、違和感を抱きました。 初七日、四十九日、一周忌、三回忌、七回忌……。 これらも「故人のため」と言われますが、実際に負担を背負うのは残された家族です。
この回忌法要も、現代におけるビジネス的な側面が強いのではと邪推しています。
故人を偲ぶ気持ちは、形式的な儀式の回数ではなく、日々の生活の中でふと想い出す瞬間に宿るのではないでしょうか。
またこれらの慣習に反する行為をすると「罰当たり」「非常識」と捉えられそうな空気もあります。本来の宗教の教えとは異なるものなのかもしれませんが、 実生活では、多くの人にこの価値観が強く根付いていると考えています。
これらの経験を通じて、私は仏教式葬儀をまったく信仰できなくなりました。そして、よくよく考えてみると、「自分が望んで入った宗教」ではないことに気づきました。
3.私が望む「無宗教式の葬儀」
私は家族に、 自分が死んだときは無宗教式(自由葬)で行ってほしい と伝えています。(逆に、宗教式での葬儀は絶対にしないように伝えています)
無宗教式だからこそ、 自分らしく葬儀を創ることができます。私は暗い式にはしたくない。 精一杯生きた私を、みんなが笑って見送れる式にしたいと考えています。
死因によっては、それに対する悔しさ・無念さがあるかもしれません。(例:事故や若くしての病死など)しかし、そうであったとしても、私は「死を悼むこと」ではなく「死の直前まで満足した人生を送ったことを」にフォーカスを当ててほしいと考えています。
(1)私が企画している「私の無宗教式葬儀」のイメージ
現時点では、以下のように考えています。
- 愛用のサーフボードやウェットスーツで飾り付け
- 南国の花を添える
- 明るいサーフミュージックを流す
- 家族との写真やサーフィンの映像を投影する
- 喪服での参列は非推奨
- 葬儀後の法要は一切不要
- 骨は海洋散骨でもよい(適正な手続きの上で)
- 私の人生を振り返りながら、参加者で乾杯
- このような式とすることとその理由を案内文に記載
家族には、家に自分の写真(家族写真やサーフィンの写真など)を飾ってもらう予定です。仏壇やお墓に向かって手を合わせたり、盆や法要の時に思い出してもらうよりも、普段の生活の中でのふとした瞬間に、その写真を見て思い出してくれるほうが嬉しいです。
また海洋散骨により、私の大好きな海に帰ることができれば、家族が海を見た際に、私を思い出すきっかけにもなると考えています。
※余談ですが…「千の風になって」の歌詞にも、そんな感じの内容があったと記憶しています。あの歌が大ヒットした背景には、“死者は墓にいるのではなく、自然の中に存在する”という価値観に、多くの人が一定の納得感を覚えたからではないかとも感じています。(もちろん、秋川雅史さんの圧倒的な歌唱力があったことは承知の上ですが)
(2)無宗教式葬儀を望む理由
私が無宗教式を望む理由は、次のとおりです。
- 死を「自然の理」として捉えているため
- 生きる・死ぬ上で、神仏にすがる必要性を感じていないため
- 家族への金銭的・時間的・心身的負担を減らすため
- 他人の目や世間体を気にした葬儀の方が恥ずべきと考えているため
これはあくまで私の価値観であり、 他の人がどのような葬儀形式を選んでも否定するつもりはありません。また、日本の挨拶や所作には宗教由来のものもありますが、これらを完全に排除しようというものでもありません。ただ、生きる・死ぬ上で、神仏にすがる必要性を感じていないということです。
(補足)無宗教式の葬儀は、実際にできるのか?
ここまで読んで、「無宗教式の葬儀なんて本当にできるのか?」と疑問に思う方もいるかもしれません。結論から言えば、無宗教式(自由葬)は現実に実施されており、葬儀社も普通に対応しています。都市部では家族葬の一部として選ばれるケースも増えているようです。
無宗教式の葬儀は、宗教儀礼(読経・戒名・焼香など)を行わず、故人の趣味・音楽・写真・思い出を中心に構成する「自由葬」として確立されています。花祭壇を中心にした家族葬、音楽葬、ホテルでのお別れ会など、形式は多様です。
つまり、私が望むような ・サーフボードやウェットスーツの展示 ・明るい音楽 ・映像上映 ・喪服禁止 ・海洋散骨 といった内容は、すべて無宗教式の範囲で実現可能です。
一点だけ現実的な注意点を挙げるとすれば、菩提寺との関係です。宗教式の葬儀を行わない場合、寺院によっては納骨を断られるケースもあるようです。しかし、私自身は特定宗教への信仰心がないため、納骨先を別に選ぶ(霊園・海洋散骨・樹木葬など)ことで問題は解決します。
無宗教式の葬儀は「特別なこと」ではなく、すでに選択肢として存在しています。だからこそ私は、自分の価値観に沿った葬儀を望んでいます。
4.「非常識だ」という反応について
(1)無宗教式を「非常識」と感じる背景
ここまでの内容を見ると「そんな葬儀は非常識だ」「罰当たりだ」 と感じる方もいるかもしれません。しかし、その感覚そのものが、 その宗教によって、その葬儀が“当たり前”だと刷り込まれている結果なのかもしれません。
日本では、仏教式の葬儀が長く定着してきたと認識しています。「自分は無宗教」と言いながら、いざ葬儀となれば実家の宗教に従っている方が多いのではないでしょうか。これは、宗教的な信仰というより、文化・慣習として定着しているからだと考えています。
そういった背景から、慣習から外れた形式を選ぶと、「非常識」「罰当たり」と感じてしまうのではないでしょうか。
(2)日本国憲法が保障する「信教の自由」
そもそも、日本では宗教に関する選択は、完全に個人の自由として保障されています。
第20条(信教の自由) 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、または政治上の権力を行使してはならない。 何人も宗教上の行為、祝典、儀式または行事に参加することを強制されない。
- どの宗教を信じるか
- どの宗教を信じないか
- どの儀式を選ぶか
- どの儀式を選ばないか
これらはすべて、個人の自由であり、 誰かに強制されるものではないと考えています。
葬儀も例外ではありません。宗教式を選ぶ自由がある一方で、それを選ばない自由も同じように保障されています。
(3)「自分の最期をどうデザインするか」は個人の権利
だからこそ私は、 自分の最期を自分の価値観でデザインしたいと考えています。宗教式の葬儀を否定するつもりはありません。それを選ぶ人の価値観も尊重したい。
ただ、 私自身は宗教に頼らず生きているので、 死を自然の理として受け入れたい。家族に負担をかけたくない。 そして、明るく送り出してほしい。
その価値観を最後まで貫くために、 無宗教式の葬儀を望んでいます。
5.家族への負担を減らすための工夫
このような形式は日本ではまだ珍しく、私が希望しても残された家族が周囲から責められる可能性もあります。だからこそ、 生前から文章で残しておくことが重要と考えています。まだ文章として作成していませんが、次のような内容を盛り込む予定です。
- 無宗教式の葬儀を希望すること
- それを希望する理由(私の価値観、家族の負担軽減)
- 葬儀のデザイン(会場装飾・音楽、海洋散骨、参列者への案内文など)
これらを明確に残すことで、 家族が迷わず、周囲(仏教式葬儀が染みついている高齢親族など)から責められず、 私の望む形で送り出してもらえると考えています。
6.おわりに
改めてお伝えしますが、この記事は、特定の宗教(の教えやその信仰者)を否定・批判するものではありません。あくまで、「私は仏教式葬儀に違和感を感じた」「その結果、仏教式葬儀を信仰できなくなった」「よって、私は無宗教式の葬儀を希望している」という私の価値観を記載しているものです。
- 死を自然の理として捉えている
- 生きる・死ぬ上で宗教にすがる必要性を感じていない
- 死を悼むことより、精一杯生きた私を見送る葬儀をしてほしい
- だから、自分の最期は自分でデザインしたい
あなたも、自分の最期のあり方について考えてみてはいかがでしょうか。

